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W杯を見てWBCを思い、そこからの雑感

サッカーW杯を見ていると、ついついWBCのことを思う。
で、この種の「W杯とWBC」みたいな話を持ち出した場合のお決まりの反応は以下の通り。

野球とサッカーでは世界的普及度が違う。一緒にするな。

それに対する答えは「だからどうした?」である。
世界的普及度というのは、スポーツ(というか文化全般)の価値に直結するのか。
だとしたら、相撲もアメフトもクリケットもセパタクローも、価値はないってことになる。
そもそもサッカーが世界的に普及したのはヨーロッパ諸国の帝国主義政策の結果であって、
文化的価値の問題ではなく政治的要因じゃないのか。

というわけで言いたいことは、
W杯とWBCとの間に「価値の上下」なんてものはなく、
どちらも同じように「国別対抗戦というのは面白いなあ」という感想を与えてくれるということだ。

ただ、「相対的」な疑問は残る。この極東の島国・日本において、
なぜ、サッカー文化よりはるかに先行して野球文化が浸透したのか、という疑問だ。

ベースボールとフットボールは、ほぼ同時期に日本に伝来している。
明治維新直後の文明開花期のことで、前者はアメリカ人が、後者はイギリス人が持ち込んだ。
しかし周知のように、ベースボールは瞬く間に日本人を魅了したのに対して、
フットボールの普及は遅々として進まなかった。

さてこの時(注・明治11年頃)に大学の外人教師の友人というので横浜から英国の貿易商であったアーサー氏というのが工部大学をおとずれたことがある。そして学生の野球技に熱中しているのを見て彼は、「どうして野球をやるのか。野球は開国後日の浅いアメリカに起こったものでヨーロッパではやっていない。(中略)諸君は狭い地域に限られたベースボールを行うより、ヨーロッパ全体でやっている遊戯を選んだらどうだ」と諄々と説き出した(中略)もしもこの頃イギリス人が多くいてフットボールの快味を伝えたらどうなったか、或いは現在の野球よりも更にフットボールが拡がったかも知れない。同時に野球の精神よりもフットボールの精神が伝わって、若い学生の気風に一大変動を与えていただろう。けれど退嬰保守的のイギリスはその思うところを伝えることが出来ず、この東洋の小帝国をあくまで自分の型にはめようとしたアメリカの方が勝ったのである。
 ──国民新聞運動部編『日本野球史』より

ここに記されているのは、要するにこういうことだ。
「開国」した日本という国に対して、アメリカは本気で文化的侵略を試みたのに対して、
イギリスはそれほど本気にはならなかった。だから、野球の方が日本人に浸透したという話である。

それが真説であるかどうかは分からない。
歴史の浅い新興国アメリカは、
大英帝国が世界各地で行ってきたような「文化帝国主義」の真似事をやってみたくて、
その格好のサンプルとして日本を選んだということなのか。

……というような歴史的難問にクリアな回答を与えられるはずもなく、
そのへんは今後の研究課題とさせてもらいます。
が、あえてここで暴論を吐かせていただければ、
少なくとも日本人は、明治維新以来百数十年、
敗戦やらグローバリズムの洗礼やら幾多の紆余曲折を経た結果、
ベースボールの醍醐味も、フットボールの奥深さも、
ともに享受できる懐の深い感性を獲得できたということです。
ベースボールをいまだに理解できないヨーロッパ人や、
フットボールについていまだにチンプンカンなアメリカ人の了見の狭さを考えれば、
我々は、少なくともスポーツを楽しむ感性においては
とても柔軟で豊かな環境にあるのではないでしょうか。

(オースギ)

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2010年07月06日 01:16に投稿されたエントリーのページです。

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